2018/02/08(木) 02:09

【続・熊本へのラブレター】全てをなくした後に見つけた村の未来〜南阿蘇村高野台団地・高橋俊夫さん①

カテゴリ: 熊本地震
4月16日未明の地震による地滑りで土砂が流れ込み、大きな被害が出た高野台団地。15度程の緩やかな傾斜面で起きた激しい土石流によって5人が命を落としたこの場所は、震災遺構として公園化する案が上がっている。16軒のうち6軒が土砂で潰れ、残った家も全壊、半壊の判定を受けた中で、現在は4軒が残り、現地での暮らしを再開・継続している。土石流で家を失った高橋俊夫さんは今、南阿蘇村地域支え合いセンターで働きながら、村の復興に情熱を傾けている。将来の村の姿を熱く語る彼だが、ここに至るまでには、精神的ダメージ、離職、経済不安など、様々な困難を乗り越えてきた。そんな彼の目に見えてきた、南阿蘇村のヴィジョンとは?

家、土地、車…全てをなくした地震の後、強い衝撃が襲ってきたのは1年後だった

 

2016 05 12 09.49.47 e1516820241738京都大学火山研究所から続く丘陵の地震直後の様子。大規模な地滑りにより大量の土砂が住宅地に流れ込んだ。

 

 

——昨年4月に発表された高野台団地の公園化の事業は、まだ正式な決定ではないということですが、住民としては今、どんな思いでいらっしゃいますか?

 

「高野台はもともと南阿蘇村に合併される前の長陽村の事業として、村が分譲した住宅地なんです。そういうところで大きな被害が出たので、最初の頃は村への補償を求める声も大きかったですね。当初は住めるなら住めるけど、やっぱり出ていきたいあそこは嫌だという人がほとんどだったんですけど、時間が経つとやっぱり現地で再建したいという人が出てきました。その中で、村が公営化事業にのせて、希望する人の用地買取を提案してくれました。住民は金額については納得しています。今は、問題はあるけど、村は善処はしている。そこは認めるという気持ちですね。

地震直後の写真でないと見えないと思うんですけど、家の基礎の周りに全部隙間ができていたんです。家が土地を揺すって隙間ができて、雨樋なんかは、土に埋まっているところと上の部分で20センチくらいずれていたんですよ」

 

——基礎がベタ基礎だったから、強くて、そのまま残ったんですね。

 

「そうなんです。地盤に打たれていた杭で、家が浮いてるんですよ。あの土地は実は、やわらかいんですね。地質調査の結果、軟弱地盤だって結果が出ています。ですから、建築時も杭を打たれてたりとかしています。あんな軟弱なところ、建てられんよねって」

 

——だからみなさん余計、村に何とかして欲しいって思われたんですね。

 

「そうそう。使えないって判断しているんです。地震直後から。専門の方も言われてたんです。地盤が弱いからまた動くよって。建ててもダメなんだけどねって。私もその考えです。物理的に考えて、一回揺すぶって表面が柔らかくなった状態なら、当然それが落ち着くのに沈んでいくっていうのは理解できるし、落ち着くまでに時間がかかるのもわかります」

 

2016 05 12 09.52.24 e1516820560454 住宅地へなだれ込んだ土砂の量は凄まじく、6軒の家を押し流した。右の大きく傾いているのが高橋さんの自宅。背景左の土砂崩れの下には阿蘇大橋があった。

 

——そういう中だと、みなさんやっぱり、あそこに住むのは不安だってなりますよね?

 

「そうです。うちはお隣が亡くなっていて…。私は玄関先で顔を合わせればお話をする方で、旅行に行かれてはお土産買ってきたりとか、いいお付き合いをしていたので、余計ですね。その方がすぐそばで亡くなったっていうのを思い出すのはもう、したくない。だから、そこには住みたくないなあって思っています。
でも、被災の度合いの大きさで意見が分かれるのもわかります。あそこで16軒あったんですけど、上は土砂で4軒流されて、2軒が潰れて、あとは徐々に、罹災の度合いが軽くなっていて、罹災の度合いが低い人たちは、修理してやっぱり住もうという気持ちになってくみたいで、実際住まれているんですね。そこで意見が別れていって」

 

——建物が残って住んでいるのは何軒ですか?

 

「被災して住んでいるのは3軒です。地震前に家を購入して、地震後に移ってきた方がいて、その方を入れると4軒ですね」

 

——住み続けられているみなさんも、何らかの形で建物は破損されていますよね?

 

「はい。半壊が4軒、12軒全壊の判定でしたから。残られている方は高齢の方が多いんですよ。70代とかね。今更お金はかけられんという方なんですね。私たちは現役世代は、再建したいんです。でも、子どもがあそこはもう嫌っていうとか、あるんですよね。うちはそんなには言わないんですけど、まあ、行きたがらない場所ではあるんですね。その中でも、もう村に住みたくないとか、通勤通学の関係で村から離れて行く人とか、それぞれの事情で別れて入って、実際、住めなくなった人で村内に住んでいるのは、私ともう一世帯だけなんですね」

 

仮設住宅での暮らしが始まったのは、避難所8か所を移動した後


 d19740aa58404dcd2177aa63ae5cb817 e1516821282922 避難所となった久木野総合センターでは、防災士の経験を生かしてボランティアとして活動した。 

 

 旧西部小学校体育館、東海大学体育館、長陽体育館、久木野体育館、久木野総合センター、南阿蘇村福祉センター、国民休暇村南阿蘇(高森町)、阿蘇ファームランド。高橋さんは地震発生から避難所を何度も移動することになった。避難所自体に危険が及んでいたこと、施設利用者の状況、避難所の集約などの理由で8カ所の避難所で過ごした後、仮設住宅に入居し、現在に至っている。その間、家族にはどんなことが起きていたのだろうか?

 

——あれだけの大きな揺れですから、本当に怖かったですよね?

 

「怖かったのは、発生当初の話。4時間半くらい瓦礫の中にいたので、余震が怖かった。出たら余震は続いていて、東海大の体育館でも続いていた。避難しているときは、恐怖はそんなになかったですね。周りに人がいると。福祉センターまで避難してきて、そんなに大きなことはなかったですね。ところが、次に怖いなって思ったのは、休暇村に移ったとき。4人で被災して、初めてその同じ4人になったのが休暇村だったので。1次避難所にいる間はプライバシーはなかったんですけど、宿泊施設で家族だけで暮らすようになってからが大変でした。

私達は崩れた家の中にいたものですから、崩れてくるって恐怖があるんですね。夜暗くなってトイレに行くのが怖いとか、天井が落ちてくるとか壁が倒れてくるとか恐怖心があって。家は風呂、トイレ、玄関側がぺしゃんこになっていたので、トイレに行っている間にもし地震があったら、確実に死んでるんですよ。変な格好で(笑)。そういう状況を想像してしまうんです。2次避難所に避難してからの方が怖いですね。

東京医科大の准教授の方が支援で来られた時にもお話ししたんですけど、専門家もあまり知られていないことのようで、そういうこともあるんですねっておっしゃっていましたね」

 

——避難所って非日常感もありますよね。周りに人がいて、話し声やいろんな音もしているし、緊張感もあるし。その緊張がちょっと緩んだ時に恐怖が出るのかもしれませんね。特に同じシチュエーションになった時にフラッシュバックしやすいとか。

 

「そうですね。きますね。寝ている順番もほぼ同じなのでね。上の娘は地震以降くっついて寝ることが多くなりました。当時中学2年生だったんで、そろそろ離れていく年頃なんかなあと思っていたんですけど、未だに続いています。そこがちょっと気になるんですが、あとは特に言いませんね。下の息子は何もないですね。ほとんど寝ぼけていましたからね(笑)。中には全然覚えていない人もいますけどね。あんな大きな地震で?ってびっくりしますけど(笑)」

 

PICT0189 かつての高野台団地の風景。草原の下に、16軒の家が立ち並んでいた。

 

——特に高野台の場合は、土砂が襲ってくるという他の場所とは違う状況だったので、怖いというか、どこに逃げたらいいんだろうって状態になりますよね。

 

「なりますね。実際土砂が襲ってきたのを目の当たりにされた方は、2階で、土砂の斜面を見ながら夜が明けるまで家で過ごしたと聞いていますし、私達は家の中にいたので、なんで家が潰れたのかわからない状態でした。」

 

——どんな状態だったんですか? みなさん家で寝てらっしゃって。

 

「1階が潰れて、2階は傾いたような感じ、へし折られたような、押し倒されたような状態でした。寝ていたのは1階でしたが、天井までの高さがなくて机の下くらいの感じ。場所によっては、はって入るしかないくらいでした。目の前に瓦礫なんですよ。手を伸ばせば瓦礫がいくつもある。手を伸ばせないくらいのところに天井があるんです。天井は杉板で作っていたので、明らかに材質が違うものがあって。襖とかもわかりますよね。真っ暗だったんですけど、手を伸ばして襖を破ってみたり。風が冷たいなあとか。冷たい空気があるというのがわかったので。

事態を理解するのに時間がかかりました。まず、埋もれたかと思ったんですね。斜面に建っているので、家が落ちたのかと思ったんですよ。落ちたかな。でも落ちたら平行におちるとは考えられなかったんですけど、寝ている面は斜めになっていないので、落ちてはいないなあと。でも、なんで家が潰れたんだろうと。

というのが、あそこは2000年から2002年くらいまでに建ててる家がほとんどで、最新の耐震基準でつくられてるんですね。揺れで壊れた家はほとんどないんですよ。半壊はあっても全壊はない。でも、壊れているからおかしいなと。
家から出て、助けを探しに行った時に、表にまわったんですね。そしたら、あり得ないところに車があって、目線よりちょっと上の高いところに。そしたら土砂が見えて。その時初めて、土砂でやられたっていうのがわかったんですよ。
うちの裏からずっと林で、道があって林があったんですが、出た瞬間に、林がないんですよ。で、あれっ?木がない、遠くまで見渡せる。だから最初は、家の向きが変わったかなって思ったんですよ。でも道路はそのままの位置にあって…。で、崩れた土砂の上に、屋根が一部見えてたんです。なんでこんなところに家があるんだろうって思って、降りて行ってから初めて、土砂が流れてきて全部押し流しているのがわかったんです。見えていたのは押し流された隣の家だったんですね」

 寝ていた辺り

 1階の寝室付近は天井が床に迫っていた。幸い家族に怪我はなく、全員が無事に脱出できた。

 

ーー瓦礫の中から這い出されたんですね。

 

「天井、襖など比較的軽かったので、どけたら隙間ができて、外に出ました。最初は真っ暗だったんですけど、明け方になったら隙間から明かりが見えてくるので、下まである窓だったのですが、それがひしゃげて三角形になっていました。ガラスは割れてほとんど外に出ていました。襖のレールが割れていたので、橋渡しにして、その上を歩き、網戸が塞いでいたので蹴り破って外に出ました。家の裏のブロックがあったので、それを超えて降りて、フェンスを乗り越えて、軒下を歩いて逃げ、助けを呼びに行きました」

 

——では、明るくなるまで我慢だったんですね。ご家族の安否は?

 

「全部隣に寝ていたので、声をかけたらわかりました。それが一番助かった理由です。それがなければどうなっていたかわからないですね。精神的に。発狂して言いたかもしれない。あの頃、上の子は2階で勉強するようになっていたんですが、寝ることはなかったので。2階で寝ていたらえらいことになっていたなと。片側に全部机から何からベットごと全部押しやられて、凄まじい状態になっていましたから。

床自体が斜めだったので、2階だったらそのまま振り落とされていたかもしれないし、当然ガラスが割れていたので、放り出されていた可能性もある。一部壁は破れてましたけど、隣の家にささっていたので、結果的には、隣の家がつっかえになって、それ以上壊れることはなかったんですね」

 jitakuura

自宅裏手から土砂が押し寄せ、1階が大きく屈曲した中から這い出して脱出した。

 

——みなさん家族で揃われて、地域の方と合流して、避難所へ移動されたんですね?

 

「話はいくつか出てたんですね。高野台って16世帯の戸建てと、村営アパートがあって、それが一緒に避難しました。私は家から出たのが朝6時くらいでしたが、車が動かせる人は車で休まれていて、そこに残るって声もあったんですけど、完全に道路が塞がれていたので、ここに支援物資が来ることはないと思ったので、人が集まる広域避難所の西部小学校までとにかく行こうと思いました。何世帯かは一緒に行きましたけど、それ以外はどうされていたかわからないです。でも何人か東海大学の体育館で見た方もいたので、避難されたんだろうと思っていました」

 

——黒川区(東海大学がある地区)の方へはなんとか逃げて行けたんですね。

 

「道はなかったんですけど、道の脇は林になっていて、そこは人が歩けるくらいあいていたのでね。草もまだ伸びてなかったし、間伐されて木の間も広かったんで。早いうちに自衛隊が車が通れるだけの道を開けてくれていたので、そこから出られるようになっていました。潰れたのが、11台かな? 生き残った車の方が多かったんですね」

 

全てをなくした人達にはもう、義援金も見舞金も残ってないですよ


car2 土砂に飲み込まれた車。最初見た時は、なぜここにあるのかわからなかったというくらい土砂に押し流されていた。

 

 

——困られたでしょう?

 

「遠い親戚から1台借りて、もう1台も知人からしばらくお借りして。その間に車を中古で安く譲ってくれる人はいないかってことで、携帯もなかったので携帯も新しくして、何人かに聞いてみたんです。そしたら知人から呼び出しがあって、車買いませんか? お金はとりあえず出しときますからと言われて…。そこは甘えたんです。もう払ってますけど(笑)。それを買ってから、もう1台借りていたのが車検が切れるタイミングで、次の車をもらって、またその車もダメになって、結局買いました」

 

——車もですが、最初に家から出られた時は、靴もないですよね?

 

「ないです。近所の方から運動靴をもらって、長靴ももらって。携帯も財布も鍵も。何もないです。避難した時に嫁さんの実家で見舞金をもらって、そこで少し必要なものを買いました」

 

——家財もほとんど出せない状態ですよね?

 

「家具、家電は全滅ですね。衣類もほぼ全滅です。小物は多少取れています。子どもの制服も勉強道具もない。勉強道具は支給してもらえたんですけど、カバンとか制服は学校から声をかけてもらって、お古をいただいて、なんとかなりました。休暇村に行った頃から徐々に買い揃えて、仮設に移動してから、テレビとか、洗濯機とかも準備しました」

 

——それだけ買っていると、お金がすぐになくなっていってしまいますね。

 

「もう、義援金、見舞金、ほとんどないんです。住まい再建で、県知事が説明された、リバースモゲージだったり、子育て世代の優遇の政策などは、自己資金があるのが前提です。義援金とか生活再建支援金があるでしょ? 土地があったら家建てられますよね? 自己資金これだけありますよねって条件。ところが、こっちで被災している人っていいうのは、自己資金が今の生活に必要なお金だったので、使われている。当然200万なんてすぐになくなります。だからもう、うちはないです。同じような話を他の仮設団地でも聞いていて、残っていない方も多い。ああいう条件っていうのは、非常に軽度の方ですよね。家は崩れましたが、車は無事でしたよ、土地もちゃんと使える土地ですねってところです」

 

——自己資金がない、土地がない、担保がないという状態。じゃあどうするんだってなりますね。

 

「はい。1番大きなのは、仕事を失ったことです。地震から1年が近づいた頃、仕事ができない精神状態になって、病院にかかりました。医師からは3ヶ月間の静養が必要だって診断が出されたんで、仕事を結局辞めたんですよ。社会人として3ヶ月休むのに職場にいるのは厳しいので、やめるしかないだろうと思って。退職したのは去年の5月です」

 

——1年間頑張ったんですね。

 

「時間が経って徐々に蓄積されるストレス、なんですよね。常に感じていたのは、職場に行くと、被災してないんですよ。見た目が。でも、通勤の間で、黒川区を通るんですよね。帰ると被災地なんです。それがこたえていました。
すごく気が重い状態から、職場で何事もなかったかのような時間を過ごし、また気が重くなるところへ帰って行く。黒川と高野台はすぐ近くなんでね。当然自宅のことも考えてしまう。それが日々のストレスで蓄積されて、地震から1年くらい経ってどうにもならなくなり、仕事にならない状態になりました。現場に立っても記憶が飛んでるくらい。自分が何をしたかを覚えてないし、新しいことを全く覚えられない。ぼーっとしてしまって。会社に何をしに行っているのかわからない状態で、このまま職場にいても迷惑をかけてしまうので、辞めました。でも食べていかないといけないので、南阿蘇村の地域支え合いセンターに就職したんです。当然収入も減ってしまうし、臨時職員なので、今後も保証できない。普通にいけば仕事があったんですが…」

 

——地域支え合いセンターにはどういう経緯で入られたんですか?

 

「何か収入がないと生活できないのはわかっていました。その時100万くらい持っていたんですけど、嫁さんの車が壊れて買ったりして、残りが50万切ったんで、このままいったらもう、半年も経たずに自己破産してしまうので、多少なりとも収入が入るということで、仕事を探したんですね。友人が役場の臨時職員を応募していたので、そこにハローワークを通して申し込んだんですけど、そこは他の人に決まって。そしたら、役場の人が社協を紹介してくれたんです。
それで、被災地の中だけの仕事になったんで、精神的にも落ち着けて、今は何らかの強いストレスがあった時は落ち込んだりしますけど、通常は問題なく過ごせるようになりました」

 

DSC 2145 土砂の撤去後取り出された愛車。動かなくなった車6台はまだ団地の中に置かれたままになっている。

 

こうして地域支え合いセンターで働くようになった高橋さん。被災者から支援者の立場へと移った彼の目に、南阿蘇村はどんな風に写っているのだろう? 将来の村の復興に必要なものはなんなのか、そのために自分はどうしたいのか。高橋さんのヴィジョンを聞いた。

(写真提供:高橋俊夫)

 

<地震から1年までの様子は、『ローカルメディア3 vol.4 熊本へのラブレター』に収録しています>

http://local-m-info.check-xserver.jp/vol-4.html

 

 

 

 

 

 

 

この記事は 24 回読まれました 最終修正日 2018/04/17(火) 05:37
澤田佳子 さわだけいこ Kco Sawada

ローカルメディア3代表・編集長。コミュニティ×循環型の暮らしを求めて関東から九州へ。九州のローカルネットワークをつなぎながら、固定概念を超えた新たな選択肢「次の暮らし」が生み出す世界の実現に向かう。


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